こんにちは(((o(*゚▽゚*)o)))
今日は午前中に植物学を学んで参り、お花の役割を植物学的考察にもとずいてまなびました(^-^)
素敵なフランスの植物学の本
昨日、生徒さんとお会いして、様々な打合せ、シェアの中で、『批判』と言う事に話しが及び、批判と捉えるか意見と捉えるかの意識の違いがあって。
先ず自己価値が低い人は、いつも自分は批判されると言う思い込み、信念のある人は、何の意見を出しても批判されていると捉える。
誰もダメと言ってないのに、ダメと言われた
とか
一言もやめろって言ってはないのに、やめろって言われている
とか
ただテーブルの上に自分自身が望むもの以外のものが乗っていただけで、何故あるのかを確かめもせず愚痴不満、自己憐憫に陥るとか
被害者になっている人は、言っても無いこと、やってもないことを、とことん自分のフィルターによって脳内変換をしてしまう。
(自分自身に都合が良いことも、悪いことも)
そして被害者になって、自分を批判していると思い込み、その相手側や世界を批判するので、それはその人の、批判と言う定義を作りあげます。
批判をしない人は意見として捉えて、批判されているとは捉えない。
あとは何度も書いていますが、また聞きで、○○さんが△△と言っていたと言うのを耳にするのも、自分自身の中でどこかに言われても仕方ない自分自身を自覚しているはずで、
例えば
やり過ぎたなと感じているとか、
言い過ぎたなと感じているとか、
暴言吐いた事への罪悪感、
過去にやらかした悪事への罪悪感
そんな自分自身を恐れていたり
関わっている事への怖れが出て、周りに言って自分自身を正当化したい
など
自分自身の後悔や罪悪感を払拭させる為に、自分自身は悪くないと思いたく、正しいと思いたいが為に、被害者になり相手側を悪者にしたがったり、批判したり。
いつも自分自身が人を批判している気持ちがない人は、批判とは捉えず、意見として聞きます。
1人1人の意見として、妄想せず、事実のみ捉えて、マインドいれずに意見として捉える訳です。
批判と捉える気持ちはどこから来るのか?
批判されていると思い込むのは、自分達が他者や世の中を批判しているから同じく批判と言う定義がある訳です。
・批判に値する自分自身
・批判されても仕方ない自分自身
・ある事が引っかかっていて批判を招く自分自身
・自分自身が何かを批判をしているから、自分自身みたいな人から批判されるのをどこかで恐れているから逆に攻撃してみたり
そこらへんの解放をしたら、批判とは捉えずに意見として捉えていけるようになってくるかな。
自己価値認めて、被害者から脱却したら、批判されていると言う思い込みもなくなり、一意見として聞けるようになっていきます。
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